ゲルマン民族とは?特徴や宗教/言語など徹底解説!大移動の原因(なぜ)や影響は?ゲルマン民族は高校世界史で『ゲルマン民族の大移動』という言葉と共に知ったという方も多いのではないでしょうか?今回はゲルマン民族の特徴や宗教、言語に加え、大移動した原因やその大移動による影響を紹介します。
目次
ゲルマン民族とは?
ゲルマン民族とは、インド=ヨーロッパ語族に属していて、バルト海沿岸地方を原住地とする人々のことをいいます。
ゲルマン民族は多くの部族に分かれていて、東ゴート人、西ゴート人、ランゴバルド人などもゲルマン民族とされており、ゲルマン民族は牧畜と狩猟を主業としていました。
なお、ゲルマン民族の史料としてタキトゥスの「ゲルマニア」やカエサルの「ガリア戦記」などがあります。
ゲルマン民族の容姿
ゲルマン民族の身体的な特徴として、青い眼、ブロンドヘアー、高身長などがあげられます。
ゲルマン民族は、現在のノルウェー人、デンマーク人、スウェーデン人、アイスランド人、オランダ人、ドイツ人、イギリス人などの祖先となった人々なので、どんな容姿なのかはイメージしやすいのではないかと思います。
ゲルマン民族の居住地
ゲルマン民族は、ヨーロッパの北部、スカンディナヴィア半島南部からバルト海・北海沿岸を居住地としていました。居住区としては、西はライン川から東はドナウ川が境界となっていました。
スカンディナヴィア半島とは、現在のノルウェー、スウェーデンが位置する半島のことです。
ゲルマン民族の食事
ゲルマン民族は肉とビールを好んでいました。だからと言って肉ばかりを食べていたのではなく、牛乳、チーズ、バターなどの乳製品、卵などの畜産品からカロリーを摂取していました。
それらの乳製品や畜産品は自分たちで育てたり作ったりしていました。
ゲルマン民族の宗教や言語は?
ゲルマン民族の宗教はアリウス派キリスト教を信仰していました。キリスト教アリウス派はイエスの人間性を強調していたため、ニケーア公会議で異端とされました。
そして、ローマ帝国内で異端とされたアリウス派は、ローマ帝国の北方にいたゲルマン民族へ布教されました。
ニケーア公会議とは、325年にローマ帝国のニケーア(ニカイアともいわれる)でコンスタンティヌス帝によって招集され開催された宗教会議のことをいいます。
アタナシウス派が正統とされ、イエスの人間性を強調していたアリウス派は異端とされ、ローマ帝国内での信仰が禁止された。
また、ゲルマン民族の言語は、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属しており、ゲルマン語は、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、デンマーク語などがあります。
ヨーロッパのほとんどの人種がゲルマン語族に属していますが、ウラル語族のハンガリー人や言語系統不明のバスク人などは例外とされています。
インド=ヨーロッパ語族とは、ゲルマン語派、イタリック語派、ケルト語派、スラヴ語派、バルト語派、インド=イラン語系、ギリシア語などがインド=ヨーロッパ語族に属されます。
『ゲルマン民族の大移動』の原因や影響は?
ゲルマン民族は3世紀以降、平和的にローマ帝国領へ移って、ローマの下級官吏や傭兵などになっており、375年以降の移動は集団的・暴力的であったといわれています。
ゲルマン民族の移動により、ローマの社会は崩壊し、ローマ=ゲルマン社会という中世ヨーロッパ社会の基礎が作られました。
ゲルマン民族の大移動の原因
ゲルマン民族の大移動には2つの原因があるとされています。
1つは、人口の増加による食糧不足と土地不足です。
2つ目は、東方の遊牧民であるフン人による375年の東ゴート人征服と、西ゴート人圧迫です。
フン人とは、中央アジア原住の騎馬遊牧民で匈奴の一派とされています。
アッティラ王の元、フン帝国を建国しましたが、王の死後、帝国は崩壊しました。
◆覚え方
375年→375(みなGO)
大移動後のゲルマン民族たち
大移動後のゲルマン民族たちは様々な部族に分かれてヨーロッパ各地に国を建国しました。
西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア半島、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島、ヴァンダル人は北アフリカにそれぞれ建国しました。
このように、ヨーロッパ各地に移動し建国していったゲルマン民族ですが、その後東ローマ帝国やイスラーム勢力、フランク王国などによって滅ぼされていきます。
ゲルマン民族の大移動による影響
ゲルマン民族が移動したことによって他の国にも影響が及びました。
その影響を最も強く受けたのが、ローマ帝国です。ローマ帝国はゲルマン民族が移動してきた後、395年のテオドシウス帝の治世時、東西ローマに分裂しました。
特に、西ローマでは皇帝権が弱体化し、ゲルマン民族傭兵隊長オドアケルにより476年に滅亡しました。
一方、東ローマはゲルマン民族の侵入を受けることは少なく、アンティオキアやアレクサンドリア、コンスタンティノープルなどの都市が繁栄を続け、1453年にオスマン帝国によって首都コンスタンティノープルが陥落させられ滅亡しました。
◆覚え方
- 395年→395(裂くゴート)
- 476年→476(死なローマ)
- 1453年→1453(いし降参)
ゲルマン民族の女性観(豆知識)
タキトゥスの「ゲルマニア」によると、ゲルマン民族たちは女性は神聖で予言的な能力があると考えていたようです。
夫婦は一夫多妻制で、女性は貞潔を守り、子供は母乳で育てたそうです。ゲルマン民族の男たちは、自分が捕虜になることよりも、女性たちが捕らえられることを恐れていました。